【我那覇響生誕祭2023】奇跡的にめぐり逢えた我那覇響さんに自分の人生を大きく変えてもらった話

【文・ユーゴスラビア】
はじめてのブログ投稿です!四回生のユーゴスラビア(本名ゆうご)です!
今日、10月10日はそう!

大天使 

我那覇響さんの誕生日です!!!

本当におめでとうございます!!!!

生まれてきてくれてありがとう!!!!


何を隠そう私は我那覇くんがまだ年上のお姉さんだったころから(?????)担当していて、我那覇くんがいなければ私はこうしてマス研に入ることも、こうしてブログを書くこともありませんでした。

今日はそんな我那覇くんと私の出会い、そして

自分の人生を変えてもらったお話

をブログに書かせてもらいたいと思います。


※その当時の感情等を正直に書かせていただいている関係上、人によっては気分を害することがございますのでご注意ください。



目次

  1. 我那覇響が自分に与えた影響
  2. 「我那覇」響との出会い
  3. 我那覇響が担当の中でも別格になるまで(OFA)
  4. 我那覇響と出会えた奇跡と感謝



1.我那覇響が自分に与えた影響

高校時代を過ごした男子校である私立~学園はスポーツゴリラ、お金持ち、陽の者、陰の者などの垣根のない「超」自由な環境で私は非常にいい青春を過ごすことができました。いろんな人と学校で暴れ、一生ものの出会いもありました。そんな彼らと出会えたのは


「自分が分け隔てなく人と話すようになったこと。」
「自分がスポーツだけの人間ではないということ。」
「ちゃんと理解しようとすれば人は皆、分かり合えることを知っていること。」


これらの要因が大きかったと考えています。これらの要因は今の自分の人格形成に大きく関わっていて、これらをもたらしてくれたのは「我那覇」響との偶然の出会いでした。


2.「我那覇」響との出会い

我那覇くんに出会うまでは所謂「オタク」嫌いでした。典型的なオタク。テレビでよく見る秋葉原にいるようなオタク。小学校でも「まさしく」な人たちがいて本当に嫌だったのを強く覚えています。その頃の自分(小4)というのは放課後の習い事にサッカースクールやアメフト、競泳を掛け持ちするような完全なスポーツゴリラした。学校の休み時間に自分たちが外で遊ぶ中、教室で「よくわからないこと」を話すのが不気味で、彼らと話すこともなければ分かり合えることなんて一生ないのだろうなと思っていました。言ってしまえば尖り散らかしていたクソガキだったのですよね。スポーツの中でも特にサッカーが好きで、土日は必ず地元のサッカーチーム2チームのうちのどちらかの試合をスタジアムで観ていました。この二つのチームのうちの一つである川崎フロンターレに所属していた(小4当時も過去形)選手が「我那覇」和樹でした。その選手は物心つく前から知っていた大好きな選手で、川崎フロンターレのエースで日本代表でした。しかし、その選手がシーズン途中でドーピング冤罪事件(2007)に巻き込まれてしまい、何もわからないままそのチームを退団してしまいました。

それから月日が経ち小学4年生の頃、親からパソコンを買い与えられ自分はインターネットというものにはじめて触れました。検索すればなんでも出てくるとなんでも出てくると知った自分はあの好きな選手がなぜ移籍したのか、あの時何があったのを調べました。
何度も何度も調べました。検索欄にカーソルをあて、「G・A・N・A・H・A」とキーボードに打ち込み....


🔍がなは
 
 我那覇 くさそう
 我那覇 くさい
 我那覇 和樹
 我那覇 自転車


「なんだ、この中傷は」正直にそう思いました。その当時の自分の中で「我那覇」という人物は好きなサッカー選手のことを指し、当然その選手が中傷されていると思いました。ただ現実は違っていました。サジェストをクリックしてたどり着いた先は「我那覇」響でした。その当時はまさにアニマスが放送された時期で、あの被り物シーン後でした。たどり着いたニコニコ動画には自転車を漕ぐ我那覇くんなど様々な我那覇響がアップロードされていました。このことをきっかけに自分ははじめて所謂オタクコンテンツに興味を持ちました。最初は偏見もあり、いい意味でいじられている我那覇くんの動画を見るにとどまり、アニマスを見ることはしていませんでした。ただ、ニコニコ動画を見始めてからは早く、空耳やら何やらを関連から見ていくうちに気づけばニコニコでアニマスを見ていました。


何も変わらない学校で過ごす時間、休み時間になればドッヂボールのボールを確保するために廊下をダッシュ。これが当時の私が繰り返してきた習慣でした。ある日の昼休みが始まった時、自分はこの習慣とは別の行動をとりました。なぜなら、教室で「よくわかること」を話すオタクがいたからです。自分は「約束」について一緒に話したくて、話したくて仕方がなかった。だがしかし、自分が近寄りがたいと思っていたオタクたちとは話したくなかった。悪くいうなら、普段遊んでいる人たちから自分も同族、オタクだと思われたくなかったのです。その日は少しの間教室で考えたのち、話すことなく遅れて外に行ったと記憶しています。

それから何週間か経ち、最終回の一つ前の天海春香回、葛藤を描く回に当時チームスポーツで色々と苦悩していた自分を重ね大号泣しました。


この感情や考えたことを自分は共有したかった。
このことをニコニコでコメントしても何か反応が返ってくることはない。
自分はこの出来事、思いついて誰かに会話したかった。


だから、同じ話題を共有できるオタクと話す。その判断に偏見が入り込む余地はありませんでした。話に参加して戸惑い距離を置くオタクたち。それでも自分がしっかりと話題に入っていけば自ずと距離感は近くなっていきました。気づけば昼休みは終わり、外からいつも遊んでいた人たちが帰ってくる。話していた輪から離れて自分の席に移動しようとする頃には、オタクたちは西村に辻井、百瀬に吉井となっていました。この時間を経て自分がオタクに対して抱いていた、話しにくい奴ら、異質なことを話すよくわからない人たちという印象は本当に好きなことを話したすぎて周りを引かせてしまっているいい人たちに変わりました。ちゃんと理解できればちゃんと人は皆、分かり合えるのだと気づかされました。また、自分が思い込んでいた普段遊んでいる人たちから自分もオタクだと思われ蔑まれることはなく、むしろ自分が異様なまでに嫌悪していたことに気づきました。
今ではそのことをよくないし、もったいないと思うとともに、あれは同族嫌悪だったのだなと振り返ります。この出来事をきっかけに自分はより多くの人と話すようになり、話しかけてくれるようにもなりました。もうその時には尖り散らかしていたクソガキはどこにもいませんでした。


3.我那覇響が担当の中でも別格になるまで(OFA)


上の出来事から三年経ち、中学一年生になった自分は親からプレステ3を買ってもらい、据え置き機でアイマスをプレーできるようになりました。はじめてプレーしたIM@SはONE FOR ALLで、もちろん最初は我那覇響を選択しました。エンディングで我那覇くんが東京に来たての頃はその環境に圧倒されて心細くて視野が狭くなっていたけど、たくさんの出会いがあってみんないい人だった、みたいな話と自分の上に書いた出来事が重なってしんみりしたあと、エンドロールのDestinyの「ねぇ 最初に出会った日おぼえてるかな あれから幾つ経っただろう…」で大号泣しました。それからというもの、自分の中で我那覇くんは担当の中でも別格になりました。


4.我那覇響と出会えた奇跡と感謝

我那覇くんは今の自分の人格形成に大きく関わり、より多くの人と関わるようになったことで自分の人生を大きく変えてくれました。
我那覇くんが「我那覇」でなければ、自分はただのスポーツゴリラとして生涯を過ごしていただろうし、いまよりもずっと心が狭く、一部の人たちだけと関わる人間になっていたと思います。ライブやイベントのために遠出したり、縁もゆかりもない他大学の人たちと仲良くなれたり、何事にも一歩前に進もうとする勇気を持つことができたりしたのは

奇跡的にめぐり逢えた我那覇響さんのおかげです。


我那覇くんとめぐり逢えた奇跡は私の宝物です。


これからもずっと応援してます!!!!


あとがき

アトレ秋葉原のASイベントに行った話や夢見がちBrideのイベントptランキングで9位になった話、感謝のマスピTPRを目指して一日睡眠3時間以下生活を続けた結果、寝落ちして108位になってしまった話などを後々更新していきますので、ぜひ見てください!

あともうちょっと3.を書きたいですね

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